古流について

古流の生け花

古流の生け花
古流の生け花

生花(せいか)

古流の発祥の当初から続く生け花が「生花」です。
その原点は床の間で、一種類の草木を数枝、足もとを一つに沿わせ天地人の哲学のもとに三角形を形づくります。
格調の高い美しさです。

三代関本理遊家元
五葉松の生花
文政七年『古流生花門中百瓶図』

応用花(おうようか)

応用花(おうようか)

『応用花』は生花(せいか)の花型に生けながら、数種類の木や花をあわせます。
気品のなかに華やかさをみせます。

彩流華(さいりゅうか)

廣岡家元家の口伝・伝書とアジア古来哲学にもとづき中世室町将軍家の荘厳(床飾り)と同じ理念で行けられるのが『彩流華』です。

自由花(じゆうか)

自由花(じゆうか)
自由花(じゆうか)
さまざまな花型に生けられるのが『自由花』です。
建築や生活形式、花材の変遷にともなって多様に生けられます。小物などを用いて可愛い表現をする『古流のフラワーコーディネート』も自由花の一つです。

古流の歴史

『古流家元十世松盛齋 廣岡理樹』

(※この項は『古流の自由華 基礎編』から掲載しています)

はじめに

古流の生け花は江戸時代のなかごろ、室町時代の足利将軍家の荘厳(しょうごん=床飾り)の精神をもとめて、一志軒今井宗普により江戸の地でおこされました。
明治、大正の時代まで、古流の生け花の分野(生け方)は当初から続く生花(生華=せいか)だけでしたが、建築をはじめとした様々な生活様式の変化にともない、昭和の時代に入って自由花(自由華=じゆうか)の分野が新たに設けられました。古流の精神にのっとりながらもさまざまな場所により自由に生けられる自由花は、生花よりも親しみやすい、また少し容易に生けることができるという性格のため、古流の生け花はより広い裾野を持つことになりました。
その後さらに古流には応用花(応用華=おうようか)の分野ができました。応用花は伝統の生花の花型に生けながらもさまざまな花材を併せ生けて、格調のなかにも華やかな美の世界をみせています。
さらに近年ではアジア古来の哲学のうえにたつ彩流華も生けられています。それは足利将軍家の荘厳の考え方とも似ており、古流の当初の理想に還ったということもできます。
古流の初期の家元たちは京都の古い文化を研究し、あるいはまた江戸の優秀な国学者でもありました。その口伝や研究資料などを数多く受け継ぐ独自の立場の当流家元であるからこそ、全国の生け花諸流や各会のなかでもきわだった奥行と間口を持つに至ったといえるでしょう。また明治維新の動乱期にこの正統の家元が貴重な口伝伝承とともに屈指の文化都市である城下・金沢へ移り、以来百三十年の時間のなかで日本でも独自の伝統芸術として醸成されたことは、まことに貴重なできごとと言わなければなりません。
美しく、そして安らぎをもたらし、さらには深い哲学の世界にもつながっている古流の自由花を、是非ともきわめていただきたいと思います。

基礎知識 ~~いけばなの歴史と意義~~

古流の生け花の発祥は江戸時代のなかごろです。では生け花そのものの発祥はといえば、花を飾る、といった次元のことではより古い文献や絵などにいくらもその記録や痕跡をみることができますが、植物をもちいての芸術・芸道という域にまでたかめられたのは、室町時代、足利将軍家の時代といわれています。足利将軍家の「同朋衆」とよばれる、今日でいえば芸術家とお坊さんの中間のような職分の人たちの一部がおもに、この花を生けることに従事したと言われてきましたが、今日では、将軍その人がかなり主体的であったとも言われています。有名な三代将軍足利義満も金閣寺を建て世阿弥との関係が知られるなどこのような芸術に関心が深かったことが分かりますが、とくに銀閣寺を建てた八代将軍足利義政が文化芸道に深い造詣を持ち、とくに床飾りと生け花はこの足利義政の時代、それも応仁の乱をへてのちの晩年に、やっとかなり完成の域に達したものと思われます。それは、不思議な歴史のあやとも言えるでしょうか。
当時の生け花は今日では「古立花」とよばれます。床の間の荘厳、つまり軸と花などの飾り方が優れていればそこにとても大きなよい力が宿ると考えられ、悪用を避けるためみだりに他人に教えない秘伝、つまり口伝・一子相伝という形で伝えられていきました。そのため、実際にどのようなものであったかは今日ではその詳細は分かりません。そしてその後の二百年以上にわたり、専門的な芸道者や僧侶などのあいだでは足利義政の晩年の床飾りがどのようなものであったかは非常に大きな関心事でした。寺院の花も、このような時代に研究されたものが仏前に応用され今日に定着している場合が少なくないようです。 今日一般に伝わる「立花」は、同朋衆のような立場でありながら足利将軍家にほとんど出入りを許されなかった人たちが一般に広めた、少し趣が違う花の系譜で、当時の大津絵(ブロマイドのようなもの)などにも刷られて売られた大衆的な文化でした。この花の愛好者は後水尾天皇を筆頭に公家にもひろがり、床の間を離れて大がかりな「花会」に終始しました。このようなながれのなかで、立花は安土桃山時代の大名たちの交流の手段にもなりました。ほんらいの足利将軍家の床の間の花と区別するために今日ではこれを「立花」とよび、足利将軍家の「古立花」と混同しないようにしています。
江戸時代なかば、当時の立花のあり方を批判していくつかの「生花」の流派がおこり、広まりました。古流はその代表的なもので、幕府の文化政策である家元制度のなかで、それまでは流派とはよべない体裁であった立花にかかわる人たちも「流派」をつくってゆきました。
その後、明治維新、世界大戦と戦後の民主化という歴史は生け花にとっても大変に大きな出来事でした。右に述べた本来の系譜のなかで、それぞれの生け花がその時代にあった形で変遷しました。
とくに大きな変化は、江戸時代までは生け花の「花型」が決まっており、それも水際からすべての花材が沿って一本となって立ち上がり、上へいってから各々の枝が分かれ出る、というものでした。古立花をのぞけばそれらは立花と生花に区別され、とくに生花では流派によってそれぞれの特徴がみられます。またこれら江戸時代の終わりまでに生まれた生け花を総合して格花や伝統花とよぶこともあります。
明治時代以降昭和初期にかけて、立花や生花のような花型がない、新たな生け花が数多く生まれました。それらは各流派によって、折り入れ花、自由花、盛り花、現代花などの名前でよばれています。
このように変遷してきた生け花ですが、その本来の意義は、幸せをもたらし、すがすがしい気分にしてくれる美しさと言えます。奇をてらうゆえに必ずしも人々によい影響をあたえないような花は、どれだけ目立っても本来の生け花、よい花とは言えません。
古流の生け花は室町将軍家の荘厳、古立花に理想を求めておこっています。その後、時代や建築様式が変わったなかで親しみやすく生けやすい新たな分野として生まれた自由花ですが、しかしあくまでも古流の本来の考え方のうえにたつものです。草木の自然な美しさを生かすことを学ぶなかで、右に述べた本来の生け花の意義を無意識のうちに身につけていくことにもなるのです。

花材の意味、禁忌など

おめでたいときに松を生けることはよく知られます。また厳粛な場面などでは濃い照葉の常緑樹である椿、サカキなどを生けるのも古来の風習です。サカキは今日ではあまり生けることはしませんが、江戸時代の花材の一覧には載っています。あるいは柏は古くは違う木を指したと言われます。このように花材の呼び名や花を飾る風習も時代や地域によって異なることが多く、混同している場合もあります。とくに大切な場面では、本来の意味をふまえて生けたいものです。
あるいはまた、花の色を合わせるときでも、たとえば紅白など、色の組み合わせが何らかの意味や表情を生み出すことがあります。同様に古くから重陽の節句で五行の五色をあわせ生けます。理屈だけでなく、感覚のうえからも色を使いこなしてゆくことは重要でしょう。
ほんらいは生け花にもちいなかった花もあります。その代表的なものはトゲのあるもので、かつては人を調伏する、つまり呪ったりするときに生けられたものだからです。しかし、ヨーロッパなどから花の文化が入るにつれ、ヨーロッパの代表的な花・薔薇などを筆頭に、日本でもそれらの花材を抵抗なく使うようになりました。
今日ではあまり神経質になることもないでしょうが、しかし、トゲを一~二個ハサミで取り去って悪意のない印とするくらいの作法があってもよいでしょう。あるいはおめでたい席では、たとえば美しい紅白のボケであってもトゲがあるので基本的には控えるようにしましょう。どうしても生ける必要があるときは、やはりトゲを少し取り去るような作法が必要でしょう。また毒があるものもほんらいはもちいない花材です。
同じ意味で、はっきりと首を切ったことが分かるような花茎、明らかに不自然に折れた枝・茎などは、生けるべきではありません。ただし、葉をそえたいときなどは、菊や芍薬などでは茎をつけておかなければ水が揚がらないことが多いので、切った茎の先端を見えないようにして挿し添えることは差し支えありません。あるいは、水揚げのよい枝や葉ものでは、形を整えるために撓めることはぎゃくに重要な場合がありますので、お稽古を重ねて覚えるようにしましょう。
またイネ(米)などの五穀も、古来、神前などの特殊な場合以外は生けないことになっています。

口伝と哲学

「天地人(てんちじん)」と「天円地方」 その1

天地人は明治や江戸時代にはさまざまな場面で気軽に使われた言葉ですが、さらに古くは三才、三元、三極などの言葉で重々しい意味合いで用いられていました。五方、五法など「五」がつく言葉が『木火土金水』の五行を意味することが多いのと同様に、「三」がつく言葉は天地人を意味することが多く、両者は日本とアジアの芸道文化・哲学において基礎となる重要な考え方でした。
「天地人」が日本の文献にみられる早い例では、明語記(みょうごき・十三世紀後半、経尊著)という語源辞書があります。「天地人の三つにつかさどるを王といふと尺せり」とあり、天地人の三つを司る存在を「王」という、と説明されています。「天地」は文字通りの天と地ですが、「人」は人間世界の意味でもあり、また広い意味では天地の間の空間、またそこにある様々な霊的・物質的な存在全般を指すとも受け取れます。「王」という漢字の形は端的に右の意味を表現していることが分かります。上の横棒が天を、下の横棒が地を、中の横棒が人=天地の間 を、それぞれあらわし、その三者をつらぬいている、統括している、という象形です。「王」は本来は「宇宙の根源的な神」の意です。 以下は古流の四代家元、関本理恩の幕末から明治初頭にかけての著書からの抜粋です。関本理恩は鈴木重胤という国学者とも親交があり、和歌も数多く遺すなど国学者としての側面も強く見られます。

古流四代家元関本理恩『古流生花太極図説』より。江戸末期~明治初頭。
「‥‥図の如く地は天中に在りて方なり又地は晝夜に旋りて止む時なく南北氣を通し東西和合をなす北は高く南は低くゆへに北極星は見ゆれども南極星は見えず古語に云北辰其所に坐りて房星是に向ふが如しと有房星は何時?も晝夜を問わず旋る北極南極の二星は大地の中心にて車軸の如く万古不働の星也此の二星の徳により大地を空中に釣りて晝夜に旋る故南北気を通ずとはいふなりまた北は太陰にして南は太陽なり是陰陽和合して気を通ず天の形は圓く地の形は方にて天は陽地は陰なり依て陰陽の二気を離るる物天地間に一として是なくここをもて地中より生ずる草木は天の気を享けて生ず故に幹も茎も悉く圓く是即ち地の陰中より陽の形を現す菓実に至る迄皆かくのことし依って當流には木物を生花となすに何れも根は一本の如く圓くし又一瓶の形も穏にして圓き形をなす又三才の象を正しく本手左右ともに生方は地方三才によりて形をなす片落し受流等は天圓によりて三才の形を圓く生む事口伝あり (改頁)‥‥」  註・房星=星の名前、さそり座の一星 圓=円 北辰=北極星
?は判読に不安がある部位。

ここにある「三才」は生花(せいか)の花型の真流受の三つの主な枝を意味しています。江戸時代に発祥した生け花・生花(せいか)はどの流派でもおおむね形が似かよっており、真流受、真副控など呼び名は違っても枝先に高低差のある不等辺三角形をえがく三つの主な役枝とそれ以外の補助的な数本の役枝でなりたっています。その主な三つの役枝をその高さにおうじて天地人と呼びならわすことが多いのです。古流の生け花では真・流・受とよび、高い真の枝を「天」に、中位の枝を「人」に、低い枝を「地」にあてはめるのです。
『天の枝』には天の徳にふさわしい表情を、『地の枝』には地の徳におうじた表情を、そして『人の枝』には天地の間にあって活動する大いなる力を表現することが大切だということです。人間が住む世界、現生を象徴する『人の枝』のあり方がなかでも重視されたと考えることもできます。

図は文中にある天円地方の考え方を二つの花型にあてはめたものです。

古流四代家元関本理恩『古流生花太極図説』より
図も同じく古流四代家元関本理恩『古流生花太極図説』より。

「天地人(てんちじん)」と「天円地方」 その2

さて、もうひとつ忘れてはならない重要なことは、天の形は円、地の形は方であるというアジア古来の哲学です。円形は文字どおり丸い形、正円ですが、方形は正方形、長方形などの言葉で知られる四角形のことです。
ふつうは高い枝、低い枝、中間の枝で「天地人」を表現すると考えがちですが、〈その1〉の図をみると、円形と方形で「天地」を表現しています。このような生花(せいか)の花型へ円形・方形を配当するという考え方は古流だけでなく江戸期の複数の生け花の流派にみられるようです。
ここでは天地人は高い枝、低い枝、中間の枝という高低を表現するものとしてえがかれていません。関本理恩の他の著作をみても、天地人という言葉が高低の各枝を示すものとして登場する例は少なく、天地人の哲学ではむしろこの「天円地方」の哲学が念頭におかれているようです。
天と地はアジア古来の哲学ではいくつかの意味づけがされます。根源的な陰陽の次元では天=陽、地=陰、象徴する色では天=赤、地=白、そして象徴する形では天=円、地=方です。右に述べてきた「天円地方」の哲学です。
古墳時代の巨大な墳墓に多い前方後円墳は、前方が方形、後方が円形になっています。古くは方形の部分で祭祀をおこない、円形の部分に埋葬されていたようです。前方後円墳という命名は江戸時代の国学者がおこなったようで、この墳墓の形の意味を「天円地方」の哲学にあると考えたのでしょう。円より方の部分が大きいのがふつうですが、方の部分が正方形ではなく台形になっていることが多いのも注目されます。江戸期の大名にかかわる鏡餅にも紅白と円形・方形でつくられたものがありますが、方形のほうはやはり台形になっており、なんらの意味があった可能性は否定できないでしょう。
前方後円墳のほかにも、天円地方を意識したと考えられる例では日の丸の国旗があります。日の丸では色も形も天地をあらわし、地(=白・方形)が天(=赤・円形)よりも大きな存在であるという古来の哲学にしたがって両者の配置、バランスを決めたものと思われます。
「方」はもともとカタと訓(よ)み、方向の意味です。とくに東西南北や、ときにはその中間の北東・南西・北西・南東など九十度の角度の四方向をセットにして考えることが多いのです。神まつりの一例である『四方拝』や青竜白虎朱雀玄武の四方位の神、神事から発展した相撲の『四股』や東北の『鬼門』と西南の『裏鬼門』など同じ考え方が窺える例は少なくありません。つまりは、方向のベクトルを「方形」で象徴した、あるいは宇宙の原初的な形である円に「方向性」を加味すると方形となる、と考えた可能性は高いと思われます。北極、南極は北の方の極まり、南の方の極まりというのが語源でしょう。南北が自転軸や磁力の端を示す方向なので「極」と呼ぶのにふさわしいのに対し、東西は地球が自転する方向であって「極」を設定することができず、南北と東西は対照的な方向性です。太古から北極、南極の言葉はあっても東極、西極の言葉はないのです。

図は〈その1〉の図の花型の真流受(天地人)の枝先の方向を上からみる。

上図の枝先の方向を上からみる。無極=天の方向に向かう受は短く,全体に地の性格が強い。本手の花型。
上図の枝先の方向を上からみる。無極=天の方向に向かう受は短く,全体に地の性格が強い。本手の花型。
真横へ出る枝・流が長く、天地を強く主張している。「片落(中流)」の花型。
真横へ出る枝・流が長く、天地を強く主張している。「片落(中流)」の花型。

天円の象、地方の象 の図。
古流四代家元関本理恩『古流生花太極図説』より。

天円の象、地方の象 の図。古流四代家元関本理恩『古流生花太極図説』より。
三艘(さんそう)舟(ふね)  ― 古流四代家元・関本理恩『櫻の志津玖』より ―
ほのほ(ぼ)のとあかし(明石)のうら(浦)の朝霧に
しま(島)かくれゆく(行)舟をしそ(ぞ)おも(思)ふ     

伝 柿本人麻呂

三艘(さんそう)舟(ふね)

同朋衆の藝阿弥は室町八代将軍足利義政から三艘の舟形の器に花を生けるように命じられました。一昼夜なやんだ藝阿弥に、明け方のまどろみのなかで思い浮かんだのがこの人麻呂の古歌でした。翌日、藝阿弥はこの歌の心で三艘の舟の器に花を生け、将軍はいたく喜ばれて他の同朋衆にみせ花に合せてこの歌の軸を掛けさせました―古流四代家元・関本理恩の『櫻之志津玖』に記された内容です。
『舟』は古来、強い存在感を持つ文化でした。神話で神様が天から降臨したのも蛭子神が海に流されたのも「天の磐船(あまのいわふね)」など特別な名前がある舟でした。江戸時代に圧倒的な人気の七福神の絵は宝船に乗って波音をたてるものでした。柿本人麻呂とこの和歌も江戸時代には大きな人気があり、人麻呂は人麻呂神社などに神としてもまつられ、「人丸」とも書かれて〔人丸=火とまる〕と火伏せの神様としても人気があったようです。
三艘舟と人麻呂の古歌の話を、理恩は銀閣寺における重要な逸話として位置づけ、その図では花を室町時代の花ではなく江戸後期の時代の花・生花(せいか)で表現しています。